――もはやこれまでか。
 総崩れになる自分の軍を見て、三成は敗北を悟った。
 場所は関が原。天下分け目の戦いがここで繰り広げられ、そして、たった一日でその勝敗が決しようとしていた。
 西軍と東軍の争いは家康率いる東軍の勝利で終わろうとしている。
「左近」
 三成は最も信頼している、自分より年上の家臣の名を呼んだ。
 島左近、名は清興。
 石田三成に過ぎたるものと呼ばれた、歴戦の兵である。
「左近はここにいますよ」
 敗戦など知ったことではないという体で左近が三成に歩み寄る。
「左近、俺は逃げる。逃げて再起をはかり、そして義の世を作る。だから……」
「わかりました、じゃあ俺が敵を引きつけますのでさっさとお逃げ下さい」
 左近の言葉を聞いた三成が目を見開いた。
「殿、これを」
 左近が懐から文を取り出し、三成に突きつけた。
「逃げて再び家康公と戦う力をつけることができたとき、こいつをお読み下さい。俺の最後の軍略です」
 まだ文は左近の手に握られていた。三成はそれに震える手を伸ばした。
「違うのだ左近、俺は」
――お前と共に逃げようと思って。
 三成はそう言おうとしたが、左近の言葉がそれを遮った。
「違いませんよ。ここまで負けているんじゃあ殿が逃げるのはまず無理でしょう。なら、俺のような稀代の名将の命を引き換えにするしかないでしょうね」
 稀代の名将という呼び方は自分にするものではないだろう。しかし、それが島左近にとって決して過大評価にならないことを三成はよく知っていた。
「お前を失って再起など……」
 三成が弱々しい声でそうつぶやいた。
「俺が敵を食い止めねば殿が関が原から逃げ出すことすらできませんよ。共倒れはごめんです。時間がありません、殿が一人で逃げるかここで死ぬか選んでください」
 左近の表情は真剣そのものだった。三成は嘆息した。
「左近、すまない……」
 三成は左近に背を向けて駆け出した。

 関が原を脱した三成はそれから近江へと向かった。
 ここ数日のことはよく覚えていない。
 いや、覚えてはいるのだが、思い出す余裕がなかったといったほうが正しいというべきだろう。
 逃亡の果てに三成はかつての領地であった古橋村にたどり着いた。
 古橋村でもすでに関が原の敗戦の話は伝わっていた。
「俺がこうして逃げているのは、また家康と戦うためだ。そのための秘策もある」
 逃げられるはずが無いではないかと三成は半ば思いつつ、力強く村人達に言った。
 古橋村の農民達に政治のことなどわからなかった。
 ただ、彼らはこの落ちぶれたかつての主が飢饉の折、自分達に米を分け与えてくれたことがあったのを覚えていた。
 村人達は哀れなこの武将をかくまうことに決めた。
 三成はかつての領民に勧められ、村の近くの洞窟に隠れて暮らすようになった。
 土と岩に囲まれた日々。
 将兵を率いて再び天下分け目の合戦を行う日を夢見るにはあまりにかけ離れた生活。
 しかし三成は諦めなかった。この洞窟が新たな出発点になるのだと、そう信じていたためだ。
 そして再起の日がきたならば、懐にしまってある左近の最後の軍略の出番となるのである。
 古橋村に与次郎という百姓がいた。
 彼は特に熱心に三成に仕えた。食事を運び、何か情報が入れば伝えてやった。
 ある日、三成は与次郎に言った。
「俺の世話もいいが、たまには妻にも会ってやれ」
 与次郎は首を振った。
「ご心配には及びません。女房とは別れましたんで」
 三成にもしものことがあった際、咎が妻に及ばぬように離縁したのであろう。三成はそれを察した。
 そしてそれと同時に、自分が家康の手に落ちるのは時間の問題であるという事実を再確認した。
「……すまぬ」
 三成はそれだけ言った。
 何も持たぬ彼はそう言うだけしかできなかった。
 ある日、与次郎は佐和山の城が攻撃を受けていることを三成に告げた。
「父は持ちこたえらないのではないか?」
 三成は不安そうにそう呟いた。
 そしてその不安は的中していた。
 この報告を受けたときにはすでに佐和山の城は陥落し、彼の父は討ち死にしていたのである。
 三成が佐和山の城の話を聞いた夜、善兵衛という者がそっと古橋村を抜け出した。与次郎の養子にあたる男である。
 善兵衛は駆けに駆けて人を捜した。三成を捜す東軍の兵を捜した。
 翌朝、善兵衛は二人の武士を連れて、古橋村の山中へと向かった。三成のいるあの洞窟を目指していたのである。
 一方三成は与次郎が用意してくれた味噌汁をすすっていた。
「与次郎、苦労をかけるな」
「いいえ。お殿様にはご恩がありますんで。それでは私は野良仕事がありますゆえこのへんで……」

 与次郎が微笑みながらそう言って洞窟を出ようとした。
 しかし与次郎は洞窟の外を見て、まるで凍りついてしまったかのように立ち止まった。
「善兵衛、おめえ……!」
 与次郎の目の前には一人の農民、そして二人の武士がいた。
「おとっつぁん、悪ぃなぁ」
 善兵衛が悪びれた風もなく言った。
 二人の武士が洞窟に向かって歩を進める。与次郎は両手を広げて二人の前に立ちふさがった。
「く、来るな! お殿様、お逃げくだせえ!」
 武士のうちの一人が抜刀し、与次郎を袈裟斬りにした。
 与次郎は倒れた。
 骸と化した与次郎を見て、三成は呆然と立ち尽くし、動こうとしなかった。
「石田三成殿でございますな」
 抜刀しなかったほうの武士が洞窟に入ってきた。
「拙者は田中久兵衛が家臣、沢田少右衛門と申す者。貴殿をお迎えに上がりました」
 迎えに来たという言葉とは裏腹に沢田は縄を取り出していた。沢田に続いてもう一人の武士が入ってきた。
(もはやこれまでか……)
 三成は少しだけ目を閉じてから、口を開いた。
「わかった。だが、沢田殿、少しだけ待ってほしい」
 三成が懐からしわのついた紙を取り出した。左近が託したあの文である。
「最後にこれを読ませてもらいたい。その後は煮るなり焼くなり好きにしてくれて構わん」
 沢田はもう一人の武士のほうをちらりと見た。もう一人の武士は黙っていた。沢田はそれを見てうなずき、
「良いでしょう」
 とだけ言った。
 三成は一言感謝の言葉を告げ、文を開いた。  

 この文を書くため筆に墨をつけているとき、せっかく人が楽しんでいるところに殿が入ってきて、仕官の誘いをしたあの日のことを思い出していました。
 自分の扶持の半分を出すと言って俺を誘ったあの日、そんな必死な殿に仕えようと決めたあの日のことです。
 失礼を承知で言いますと、殿はとても天下を争えるような器ではありませんでした。
 俺は軍学を身に着けるため信玄公のもとにいたことがあります。かの御仁は甲斐の虎の名にふさわしい戦名人でした。
 かつて筒井家に仕えていたことはご存知だと思います。
 順慶殿は若くして亡くなりましたが文武両道に秀でた立派なお人でした。
 その甥の定次殿とは、左近はうまがあいませんでしたが、武辺にすぐれたもののふではありました。 しかし殿、あなたには彼らが持っていたようなものは何一つなかったんですよ。
 そのようなお人が天下分け目の争いの総大将など務まるとお思いでしょうか。
 その上、殿は義にこだわりすぎるという弱点まであったんですからどうしようもありませんでした。
 だから俺は何度も思いましたよ、家康に頭を垂れてくれさえすれば良いのですがね、と。
 実際にそう申し上げようと思ったこともありました。
 ですが、殿がそんなことをする性分でないことは重々承知でしたし、もしそれができたとしても、それはもはや俺が仕えようと思った必死さの塊のような殿ではありません。
 あの日に私が盛り立てていこうと思った石田三成が大名として一生を終える手は、この左近であってもついに思いつきませんでした。
 そして、義という重荷を背負った殿が百戦錬磨の家康公を打ち破ることは叶わぬ夢であることもわかっていました。
 さらに、そんな殿が俺抜きで再び家康公と戦うことなどできやしないということも確信しています。
 どこかに逃げ隠れて、まず無理でしょうが運がよければそのまま生涯を終え、そうでなければ打ち首にでもなるでしょう。それが精々です。
 そしてこの文を読んでいるということは、おそらく殿は逃げ場を失い、死を覚悟しているかと思います。
 殿に提案があります。
 この世では果たせなかった悲願、あの世で果たしましょう。
 俺はあの世の綺麗どころを侍らせながら酒でも飲んで待っております。
 地獄か極楽かはわかりませんが、殿のため、義の世を作るために働かせてもらいます。
 死を迎えた殿を一人にはさせません。
 ですからどうか最期のときまで、死を恐れず、死に臆さず、ふてぶてしい殿でいてください。
 これが左近最後の軍略です。
 死ぬその刹那まで石田三成らしくいていただくための策です。
 立派に死んで義に生きた者の生き様をこの世の人間に見せ付け、それから俺のところへ来るのをお待ちしております。  

 三成は文を読み終えると目を閉じた。
 左近は前からわかっていたのだ。石田三成には死ぬ道しかないということを。
「これでは策ではなく……」
 単なる遺言ではないか、自分の願いを書いただけではないか。三成はそう思った。
 しかし、勝てぬ戦に身を投じた三成が天下に何かを残すのならば、自身の死に様を以って、義とは、石田三成とはどういうものなのかを示す他無かった。
 左近はそれをこの「最後の軍略」で三成に伝えたのである。
「待たせたな、もういい」
 三成がそう言うと、二人の武士は三成を縄で縛った。
 この日から十日ほど後、三成は京の六条河原で斬首された。  

 首を斬られるすこし前、三成は徳川家の武士から小奇麗な服を与えられた。
「これは誰からのものだ」
 三成が訊ねた。
「江戸の上様からのものだ。ありがたく頂戴せよ」
 三成は武士を睨みつけながら言った。
「上様というのは秀頼様のことだ。そんなこともわからんのか、クズが」
 三成の罵声に怒った武士は渡そうとした服を取り上げて行ってしまった。
(これで良いのだろう、左近?)
 三成はそっと目を閉じ、あの世で自分を待つ男の顔を思い出していた。


09.2.1

ていじま りすな様より戴きました

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