菊花の契り

 その日は朝からしとしとと纏わり付くように雨が降っていた。
 空は幾重にも重なる分厚い雲に覆われてどんよりと低く垂れ込めており、太陽は冷たい晩秋の風に吹き払われて遠く琵琶湖の向こうに落ちようとしている。 既にあたりは薄暗く藍に包まれて、まばらに行き違う人の顔も朧げだ。
 細かな雨に濡れる通りの軒下には、そわそわと落ち着きなく足元の砂利を躙る男が一人。 意志の強そうな眼差しと、酷薄そうに引き結ばれた薄い唇が艶かしい、どこか神経質な雰囲気を纏った女と見紛うような美しい男だ。
 雨宿りに軒先を借りたまま帰れなくなったのかと思えばさにあらず、男の手にはしっかりと畳まれた緋色の傘がある。 それはこの殺風景な景色の中にどこか場違いな鮮やかさで色を添えていて、大事そうに傘を抱く物憂げな男の美貌と相まってまるで一幅の絵のようである。
 しかし、立ちんぼうをしていた男、三成はそんな物憂げな空気を台なしにするように苛々と唇を噛んだ。
「遅い」
 もうずっと、人を待っている。
 今か今かと伸び上がって通りの向こうを眺め、それに飽きるとうろうろと辺りを歩きまわり、それにも疲れると溜め息をついて蹲る。
 いったい幾度こんな事を繰り返しただろう。

       ※       ※       ※

 事の発端は怪しげな文だった。
 日の本を二分した先の大戦の後、三成は大坂で目の回るような戦後処理に追われていた。
 幼君に代わり残党勢力を駆逐し、論功行賞を行い、仕置きをし、戦火で荒れた土地の復興を指示し、と大枠の目処をつけただけでも季節はあっという間に一巡りが過ぎようとしていた。
 いっそこのまま本拠を大坂に移してはどうか、という幼君の母君の誘いを、あくまで自分は一臣下でありいずれ己の領国に戻るのだからと固辞し続け、ようやくその腰をあげられるようになったのは葉月も終わりの頃だった。

 半ば逃げるようにして父や兄に預けきりだった領国に帰った三成を出迎えたのは、ぽつんと自室の机の上に置かれた覚えのない文。
 主の留守中も毎日律儀に風を入れ、掃き清めていたことが伺える清潔な室内にたった一つ異質なそれは、昨日今日届いたふうではない日に褪せた紙なのに、いつから置かれていたのか、誰からの文なのか、家中の誰も受けた覚えがないという。
 狐狸の仕業か、はたまた何かの罠かと訝る家臣をよそに中を確かめれば、内容はたった一言“重陽の佳節に御目見得したく候”とだけ。
 周りはいよいよ訳がわからず大層気味悪がったが、三成には見慣れた手ですぐに差出人がわかった。 たった一枚の黄ばんだ紙に、こうまで胸が締め付けられるものだろうかと、どこか人事のように感じるのが自分でも不思議だった。

       ※       ※       ※

 それからはどうにもふわふわと落ち着かないまま時を過ごし、ついに迎えた菊の節句は生憎の空模様。
 向こうから来るというのだから自分の居城ででんと構えて待っていればよいのだが、長の待ち人が来るその瞬間を思えばいても立ってもいられず、ほんの少し廊下に出るだけ、門に様子を見に行くだけ、とやっているうちに気がつけば城下の外れあたりにまで来てしまった。
 結果朝からの雨にも関わらず立ちんぼうである。
「……阿呆」
 罵る言葉は己に対してなのか、未だ見えぬ相手に対してなのか。 長月の雨は刺す様な冷たさですっかり手足は冷えきっていたが、城に戻る気は全くおきなかった。
 少しでも暖を取ろうとその場に蹲ると、悴む指にほぅ……と吐き出した息が白く流れる。 どこか遠くで野犬か何かの寂しげな声が聞こえた。
「……一体いつまで待たせるのだ」
「すみません、これでも急いだんですがね」
 思わず、息を飲んだ。
 少しの気配も感じさせる事なく、気がつけば傍らに男が立っている。 屈んだ三成の低い視界の端にはあの日と同じ白の陣羽織に藍の脚半。
 一瞬にして過日の様々の事が蘇り、言いようのない喜びと同時に苦いものが胸に迫る。 込み上げるものを悟られるのが嫌で、三成はわざとどうという事もない風を装って立ち上がる。
「待ちくたびれてもう帰ろうかと思った」
「本当ですか?」
 相変わらず三成より三寸は大きいだろうか、少し掠れた低い声も、片眉を上げて皮肉げに笑う表情も変わらずそのままだ。
 可愛くない切り返しをしたのは、その勢いのまま思いの丈をぶつけてやろうと思ったからで、言いたい事は山ほどあったはずなのに、いざ顔を見たら懐かしさが先に立って腹の内に貯めていた小言の山の一切がなんだかどうでもよくなってしまった。
「……言わなくても、わかるだろう。だからこうしてずっと待っていたのだ」
「殿のような美人を待たせるなんて恐縮です……ああ、こんなに冷えて」
 男の大きな手が感慨深そうに、いとおしむように三成の頬を摩る。
「そういう調子のいい所は本当に変わらないな、左近」
 こんな事で機嫌が治ると思うなよ、と己の顔にそえられた手に爪をたてた。
「殿もお変わりなくて何よりです。お体に障ってはいけませんし、取り敢えず入りませんかね?」
「ああ、行くぞ」
 三成が柔らかな笑みを浮かべて手を差し出す。
 握り返した左近の手は、三成のそれ以上にひやりと冷たかった。

 瓦を叩く雨の音が囂しい。
 前日から三成が厳重に人払いをしておいた城の一室に陣取った二人は、差し向かいでささやかな膳を囲んでいる。
 しかし、色とりどりの料理を前にしても左近は一向に箸を取ろうとはせず、手元の盃には薄濁りの酒がなみなみと注がれたままだ。
「飲まないのか?」
「今はやめておきましょう。殿こそおあがりなさい」
 怪訝な顔の三成が徳利を片手に薦めるが、左近は曖昧に笑うだけで口をつけようとしない。 暖まりますよ、と逆に薦められて、気がつけば三成だけが酒を乾していた。 まだ猪口でニ、三杯しか飲んでいないはずなのだが、顔はおろか既に首筋まで赤い。
「酒を飲まぬ左近など気持ちが悪いな」
「気持ち悪いって事はないでしょう。左近はいいんですよ、酒なんかなくても目の前の美人に酔ってますから」
「……ぬかせ」
 三成は、酔いが回るにつれて少しずつとりとめのない言葉を重ねる。 もともと下戸に近く酒量も多くないため陽気にとはいかない。
 左近も話題を振るでもなく静かに相槌を打ちながら穏やかな笑みで三成を見つめるばかりで、二人きりの酒席は静かなものだったが、それでも流れる空気は優しかった。
「何か企んでいるのか、それとも俺の酌では飲めんのか」
 手元の猪口を遊ばすばかりで、やはり左近はそれを口にしない。
「……事情があるんですよ。 それに以前だってそんな四六時中飲んでた訳でもないでしょう」
「いいや、おまえが事あるごとに兵庫や郷舎と飲み比べをしていたのはしっているのだぞ。 前は正則ときそって大杯をほしていたではないか」
「それは宴の座興じゃないですか……ちと飲ませすぎましたかね」
 語尾が酒に溶けてどこか舌ったらずになっている三成の体がぐらつきだしたのを見て、左近は膳をどかすと手から猪口をもぎ取った。
 さしたる抵抗もなく、細い体はいとも容易く左近の腕の中に転がりこむ。 そのまま猫が身を擦り寄せるような仕種で抱きつかれた。
「宴の席でも二人の時でも、お前の飲み姿は様になるからいつも見ていた」
「おや、これは嬉しい事をおっしゃる」
 左近の陣羽織の袂を掴む手が熱い。 顔は見せてくれないが、胸元に寄せられた三成の睫毛がぱちぱちとせわしなく瞬くのがわかる。 吐きかけられる吐息は酒精だけではない熱を帯びて熱かった。
「……そうだ、俺はずっとお前を見ていた」
 三成は顔を上げて左近の両頬に手を添えると、伸び上がってそっと口づけた。
「ずっとお前の事を想っていた」

 雨はいよいよ降りを強め、障子越しにもそれとわかるほどの豪雨になった。
 帯を解く衣擦れの音さえ掻き消すほどの激しい雨だというのに、荒い息遣いは遮るものなくはっきりと互いの耳に届く。
「左近……」
 うっとりと名を呼び、逃すまいとするようにきつく腕を絡める三成が愛おしい。
 ひたと触れた身体は着衣越しでも焼け付くように熱く感じられて、舌を絡めとって息を奪うように吸い上げれば痩身が瘧のように震えた。
 そのまま耳をねぶり、髪をかき上げて首筋に舌を這わせる。 幾度も嗅いだ懐かしい匂いが胸に迫って思わず手が止まりそうになり、うろたえる顔を見られたくなくて、左近は誤魔化すように再び首筋に口づけた。
 その間も三成は口づけに溺れながらも器用に左近の着物を脱がし、そのまま下帯の結び目に手をかける。
「左近……はやく、しろ……」
「……泣いても知りませんよ」
 一線を越えてもよいものかと思案していた己の心を見透かされたような言葉に、やはり敵わないなと心の中で溜め息を一つ。
 ならば遠慮は無用と細い身体から荒っぽく残る着物を剥ぎ取ると、つかの間離れたその寸刻すら惜しむように更に深く口づけた。 触れ合う滑らかな肌の感触さえもどこか遠いもののように感じられて、床に組み敷いた三成の体が暗い部屋の中でぼんやりと燐光を発しているような気さえした。
「お前は、ちゃんとここにいるな……?」
 覆いかぶさる左近の髪がさらりと肩から零れ落ち、三成がそれを掬い上げて髪の一房すら愛おしいと言わんばかりに口づける。 問いかける声は尊大な口調に反して小さく震えていた。
「……ええ、こうして繋がっているでしょう」
 どうしてこの人はどこまでも自分の心の内を読み当ててしまうのだろう。
 三成は眦に涙の雫をためながらも鋭い眼差しで重ねて何かを問おうとしたが、続く言葉を紡ぐより先に苦い笑みで腰を揺すり上げて封殺する。 それでも切れ切れにあげる悲鳴のような声の間に左近、さこんと必死に名を呼び続ける彼は、圧迫感と言いようのない快感に耐え兼ねて、縋るように爪をたてる。
「さ…こん…」
 聡い彼はその爪痕がもう痛みをもたらさない事も見抜いているのだろうか。
 切れ長の眼から零れ落ちる涙の雫を左近はどこか人事のように眺めた。

 これは一夜限りの夢。
 どんなに深く繋がっても夜が明ければ消えてしまう。
 そんな儚いもののために泣かないで欲しいのに。
 どうすることも出来ない己の不甲斐なさが情けなくて、せめて熱を持たないこの身の想いだけでも伝わるようにと、左近は痩身をきつく抱きしめた。  

       ※       ※       ※

「……もう夜が明けるな」
 ぐったりと横たわる三成が消え入りそうな声で囁く。 力なく疲れきった様子なのに、それでもきつく結んだ手を離そうとしない。触れた場所から溶け合うことのない左近の冷たい温度だけが伝わって思わず涙腺が緩む。
 いつの間にか雨は止み、外はうっすらと白んでいた。
「長居が過ぎました。 明けの鳥が恨めしいが……そろそろお暇します」
 着物を肩にかけた左近が、そっと手を離す。
「……俺もいく」
「駄目です」
 うわごとのように舌っ足らずに呟いた言葉を左近がきっぱりと否定する。
 思いのほか硬い声に気圧されたのか、思わず溢れた涙が止められない。 よろよろと体を起こし、そのまま倒れこむように左近の胸に顔を埋める。
「もう、お前と離れるのは嫌だ」
 いっそこのまま一つに解け合って、お互いの境が分からなくなるほど溶け合ってしまえばいいのに。
 ぎり、と羽織りの背にまわした細い指が食い込む。 顔を見なくても、左近が困っているのが気配でわかる。 それでもこの手は離せなかった。
「殿がこっちに来たら、左近が闘った意味がなくなっちまうでしょ」
 答えるのは笑い声なのに、どこか苦さを含んだ声音。 大きくて暖かだった広い胸は拍動を刻むことなく冷たい。
「……俺は、秀吉様の遺命を守り……豊家の御世を守った」
「はい」
 涙で途切れがちになる三成の言葉を促すように、大きな手がそっと背中に回される。 トン、トンとあやす様に優しく叩く手が余計に胸の痛みを加速させた。
 もうやめてくれ。
 この優しい腕がいつまでも当たり前に側にあると思っていた。 失くす事なんて考えもしなかった。 そんな己の愚かさが呪わしい。
 「以前と同じように秀頼君がいておねね様がいて、幸村が兼続が多くの友がいて…皆が笑って暮せる世になった」
 でも。
「俺は、お前がいなくては笑えない……」
「死んでいったもののぶんも笑って生きるのが残された者の役割です」
「魂の片割れをなくして、それでも独りで生きろというのか!」
 三成は腕を振り払うようにして叫んだが、見つめる左近は和いだ笑顔を向けている。
 どうしてそんな風に笑える。 きっとこれが今生の別離なのに。
「遺される身は辛いでしょう。 でも、遺して逝くのも辛いんですよ?」
「……俺はまだお前に何も報いていない」
「良き主に巡り逢い、己を知る者の為に闘った。 それだけで左近は果報者です」
「左近……っ」
 大きな手がゆっくりと涙を拭う。
「……絶対に離れないと誓ったではないか」
 愛しむように手が離れて、目を開けた時にはもう、そこには誰もいなかった。


09.2.1

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